宇宙エンタメコンテスト~俳句の起源編~

年末年始のテレビ番組から、「おーいお茶」のラベルまで、川柳や俳句は私たちの日常の中に溶け込んでいます。

では、その俳句の起源はいったいどこにあるのでしょうか。

和歌の起源

俳句の母体となる「和歌」自体は、今から約1200年前、日本最古の和歌集「万葉集」にまでさかのぼります。
全20巻からなり、4500首にわたる和歌が納められた「万葉集」ですが、その特徴は特徴は「詠み手の幅広さ」にあります。

日本社会の頂点に君臨する天皇から、名前も知られていないような農民や遊女に至るまで、性別・年齢関係なくあらゆる層の日本人が詠んだ和歌が、平等に掲載されているのです。欧米の近代社会が「法の下の平等」を謳うはるか前の時代に、日本で「和歌の前の平等」が実現していたことは、大変誇り高い事実だと言えますね。

俳句の起源

興味尽きない「万葉集」ですが、ここまでは「5・7・5・7・7・」の和歌のお話。それからいかにして「5・7・5」の「俳句」が生まれたのでしょうか?

そのきっかけを生んだのが室町時代に流行した「連歌」。句会の際にお互いが詠んだ歌にどんどん付け加えながら歌を詠んでいく、ゲーム性の高い俳諧スタイルが大ブームを巻き起こしました。この「連歌」の冒頭の発句、すなわち「5・7・5」の部分だけが独立して、「俳句」が誕生することになるのです。

しかしここまではあくまで「ゲーム」の一環。和歌のスピンオフ作品として楽しまれることはあっても、和歌の正統な流れを継ぐ嫡男としてのポジションを得ることはありませんでした。

「落とし子」から「嫡男」への俳句の歩み

和歌の「落とし子」のような不安定な立場だった「俳句」に、正統な芸術としての高みを与えたのが、17世紀の偉大な職業俳人・松尾芭蕉です。ここにおいて、ついに「職業」として「俳句を詠む人」が誕生しました。(「俳人」というと「廃人」と聞き間違われてしまうことがよくありますが、当時の時代にあっても「俳人」と名乗ることはそれなりに勇気の要ることであったようです。)

芭蕉は若いころに俳人として生きる志を固めて以来、東北を中心に日本各地を回りながら様々な風景を詠み、当時の日本の文壇において確固たる地位を築くに至りました。この芭蕉については、幕府の隠密として各地を回っていたのではないかという「スパイ説」(それを裏付けるように、芭蕉は忍者の聖地・伊賀の出身である)がささやかれていますが、真偽のほどはわかりません。

停滞期を乗り越えて

しかし、芭蕉という俳句界のスーパースターが出てからというもの、しばらく俳諧の世界は停滞が続いたと言われています。新風が吹きこまれたのは18世紀初頭、与謝蕪村や柄井川柳が登場します。このうちの柄井川柳こそ、見てわかる通り川柳の生みの親です。俳句のアイデンティティとも言えた「季語」を取り払うことによって、さらに自由な創作の世界を切り開きました。

現代に通じる流れ

柄井川柳が「川柳」という巨大な表現形式を発明して以来、庶民に向かって開かれた文化として再定義された和歌の文化は、明治時代になると「新聞」というメディアと結びついて再びルネサンスを迎えます。明治時代に新聞「日本」に川柳が掲載されて爆発的な人気を集め、昭和時代になると「サラリーマン川柳」をはじめとした時事川柳がさかんに詠まれるように。1998年には俳句甲子園がスタートし、現代においても高校生たちが熱い戦いを繰り広げています。最近では、TV番組「プレバト!」の人気講師である夏井いつき先生が俳句ブームの火付け役として注目を集めていますね。

最後に

このように、「和歌→俳句→川柳」という流れをたどってきた日本の和歌の歴史ですが、どの時代にあっても庶民に開かれた自由な表現形式として日本人の心をとらえ続けてきたことがわかりますね。心に浮かんだことを、5・7・5の短い形式に結晶化させて人に伝える、その文化が約1000年にわたって紡がれてきたことを思うと、日本人として誇らしい気持ちになります。

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