宇宙映画シリーズ6 異星人との遭遇:宇宙映画での「ファーストコンタクト」はどのように描かれてきたのか?
はじめに:ファースト・コンタクト映画の意味と割合
宇宙を舞台にした映画には、惑星探査、宇宙戦争、異星でのサバイバル、未来の人類社会など、さまざまなテーマがあります。その中でも、「ファースト・コンタクト」、つまり人類が初めて地球外生命体と出会う瞬間を描いた作品群は、実は全体の3割近くを占めていると考えられています。
ファースト・コンタクトもの映画の魅力は、単に「宇宙人が現れる!」という驚きやSF的ギミックにあるわけではありません。むしろ本質は、「未知なる他者と出会ったとき、人間はどう振る舞うのか?」という問いにあります。
そこにはたとえば「私たちは何を知っていると言えるのか?」、「理解できないものと、どう共存できるのか?」といった哲学的なテーマが根底にあり、また「人間以外の知性は、神に近い存在か?」、「それとも悪魔のような脅威か?」といった宗教的な問いにもつながってきます。
つまり、ファースト・コンタクト映画は、宇宙の果てにある未知との遭遇を通じて、私たち自身の姿や限界を映し出す鏡のような存在なのです。
人間が全く未知の存在と出会ったとき、どんな反応を示すのか。その答え方は、作品ごとに少しずつ違ってはいますが、大きく分けると「理解不能」型と「理解可能」型という2つのパターンに分類することができます。
「理解不能」型:神か悪魔か、畏怖の対象としてのエイリアン
一つ目の「理解不能」型では、異星人は人間の知覚や理解の枠を超えた存在として描かれます。たとえばカール・セーガン原作の映画『コンタクト』では、ベガ星人は直接的な姿を見せることなく、主人公の記憶の中にある「父親の幻影」として現れます。これは、異星人の本当の姿は人類にはあまりにも異質すぎて見せられない、という前提に基づいた演出です。
また、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『アライバル』でも、登場するヘプタポッドという宇宙人は、時間の捉え方すら人類と異なる存在で、彼らと接触するにはまず人類の認識の枠組み自体を変える必要があるという難題が提示されます。
こうした理解不能な存在は、作品によっては神のような荘厳さを帯びることもありますし、逆に恐怖と暴力をもたらす圧倒的な悪として登場することもあります。
後者の代表例が『エイリアン』や『アンダー・ザ・スキン』といった宇宙ホラー映画ですね。これらの作品に登場する異星生命体は、言葉も思想も持たず、ただ存在するだけで人間にとって脅威となります。そこでは、対話の可能性すら最初から放棄されています。
ちなみに、現実の話としても、たとえば南米の一部の地域では、宇宙人を神として祀っているような伝承や儀礼も見られます。それだけ、人間にとって「完全にわからない存在」は、時に神聖視され、時に恐怖の象徴になるのです。
「理解可能」型:少しずつ近づいていく出会いのかたち
それに対して、「理解可能」型の作品では、異星人が人間とある程度の意思疎通ができる存在として描かれます。
その中でも、よく見られるのが「最初は怖がられていたけれど、だんだんと絆が芽生えていく」というパターンです。たとえば『ET』では、少年エリオットが異星人ETと心を通わせていきますし、『ヴェノム』では、最初は寄生してくるエイリアンに振り回されていた主人公が、次第に「相棒」としての関係を築いていきます。こうした描写は、他者との共生や、異なる存在への共感というテーマに深くつながっています。
もう少し大胆なのが、「恋に落ちる」タイプのファースト・コンタクト。
スタニスワフ・レム原作の『ソラリス』では、異星の海が人間の記憶から恋人の再現体を作り出します。主人公はそれが本物でないと知りつつも、自分がかつて愛した人のコピーとどう向き合うかという、非常に切実で複雑なテーマが展開されます。
さらに、相互理解がうまくいかずに戦争に発展してしまうケースもあります。たとえば『インディペンデンス・デイ』では、エイリアンの意図が分からないまま人類が反撃し、全面的な戦争が始まります。これは、誤解・恐怖・先制攻撃という人類の歴史でも繰り返されてきたパターンを、宇宙という舞台で再演しているとも言えるでしょう。
映像表現におけるエイリアンの姿:仮象、異形、変身
ファースト・コンタクト映画が扱うテーマの中でも、最も悩ましいのが「異星人の姿をどう描くか?」という問題です。
というのも、小説であれば抽象的な記述で読者の想像に委ねることができますが、映画はそうはいきません。
映像というメディアの特性上、どうしても目に見える形で描写する必要があるため、異星人の「本質的な異質性」をそのまま保ったまま表現することが、とても難しいのです。
このため、多くのファースト・コンタクト映画では、異星人の見せ方に工夫が凝らされています。大まかに分けると、以下の3つのタイプに分類できます。
▪️異形(いぎょう)型
一つ目は、できるだけ「人間とは違う」姿を追求するタイプです。
このタイプでは、造形や動きにおいて「異質さ」が徹底されます。たとえば『エイリアン』では、昆虫とも爬虫類ともつかない不気味なフォルムがトラウマレベルのインパクトを与えましたし、『アライバル』に登場するヘプタポッドも、人類の身体言語とはまったく異なる触手型のフォルムをしています。
『NOPE』では、最初はUFOと思われていた存在が、実は空に擬態する生物だったという、視覚的サプライズもありました。
このタイプは、「ああ、これは本当に人間ではない」と一目で理解させる力を持っていますが、そのぶん本質的な理解不能性というよりは、視覚的な異質性に寄ってしまう傾向もあります。
▪️仮象(かしょう)型
二つ目は、本当は異形の存在だが、人間が理解できるような仮の姿で登場するタイプです。
このパターンでは、異星人は本来の姿を見せず、人間にとって親しみやすい仮象をまとって接触してきます。
たとえば『ソラリス』では、惑星を覆う「知性ある海」が、接触するために主人公の記憶から恋人の姿を再現します。
また『コンタクト』では、ベガ星人が物理的な姿を取ることなく、主人公の亡き父の姿を通して語りかけてきます。
これは、「本当の姿を見せたら人間が理解できない」という前提を逆手に取った、非常に哲学的な演出ですね。
このタイプは、「本質的な他者性」に触れようとする姿勢を残しつつも、観客が知覚できる形で感情移入できるよう工夫されている点が特徴です。
▪️変身型
三つ目は、一つ目と二つ目の折衷案とも言えますが、「最初は仮象型で登場し、物語の後半で異形の本体を現す」タイプです。
この二段構えのスタイルでは、「共感していた存在が実は全然違った!」という恐怖やショックが演出されます。
たとえば『スピーシーズ 種の起源』では、人間の女性の姿をしていた異星人が、途中で異形の本体をあらわにして暴走し始めます。
『ヴェノム』でも、最初は寄生生命体の声としてしか存在しなかったものが、次第に黒い流体状の正体を現し、人間と融合していく様子が描かれます。
このパターンは、観客に「親しみ→疑念→裏切り→共生」という感情の揺れを与える、ストーリーテリングの起伏を生み出すための有効な手段でもあります。
映画が映し出す当時の「他者観」や「人類観」
ファースト・コンタクト映画の大きな魅力は、その時代の「他者観」や「人類観」そのものが色濃く反映されるという点にあります。
エイリアンの描かれ方も、その接触のあり方も、決して時代に中立ではありません。むしろ、その時代の不安や理想が投影されているのです。
冷戦時代:エイリアン=侵略者
たとえば1950〜60年代の作品では、ファースト・コンタクトはほぼ例外なく「侵略」から始まります。
『宇宙戦争』や『インベージョン・オブ・ボディ・スナッチャーズ』といった作品では、見た目は人間でも中身は乗っ取られているという設定がよく使われました。
これは、当時の冷戦・赤狩り・共産主義への恐怖が、そのままエイリアン像に反映されていたからです。
つまり、「見た目は同じでも、どこかに違うやつがいるのでは?」という内なる他者への不安が、異星人という外部の存在として表現されていたのです。
1980年代以降:共感と友情の兆し
1982年の『ET』の登場は、ある意味でファースト・コンタクト映画のパラダイムシフトでした。エイリアンが「敵」ではなく、子どもと心を通わせる友達として描かれたのです。
ここでは、「他者=理解不可能な脅威」ではなく、「他者=違っていても共感できる存在」へと語りが変化しています。
『アバター』(2009)ではさらに進んで、「他者の文化の中に入り、自分を変容させていく」というトランスカルチャー的な視点が描かれるようになります。
現代:共生と変容という新しい視点
さらに最近では、『ヴェノム』のように、異星人との接触が「身体レベルでの共生」として描かれることも増えてきました。
ここでは、異物は排除されるべきものではなく、むしろ「自分の中に取り込みながら共に生きる」対象となっています。
これは、人間中心主義からの脱却や、ポストヒューマン的な感性が映画にも浸透してきている証拠だと思います。
「誰が地球を代表するのか?」という政治的問い
最後に注目したいのが、「ファースト・コンタクトを果たす人類代表が誰か?」という点です。実はこれはものすごく政治的な問いでもあります。
たとえば『コンタクト』(1997)では、最初に宇宙人との接触を試みるのは典型的なWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)の男性科学者です。ところが物語が進むと、主人公の白人女性(ジョディ・フォスター演じるエリー)がその役割を担うようになります。これは当時としてはかなり革新的でした。さらに時代を下って『NOPE』(2022)では、ファースト・コンタクトの中心にいるのは黒人の男女兄妹となります。
つまり、かつては「国家」や「科学界のエリート」だった人類の代表が、徐々に「個人」、さらに「マイノリティ」へと移ってきているという流れがあると言えます。
この変化は、映画の中だけでなく、社会の構造そのものの変化とリンクしているとも言えるでしょう。グローバル化、ポストコロニアリズム、マイノリティの尊重などの流れが進む中で、「人類とは誰か?」という問いが再編されつつあり、それがファースト・コンタクト映画の変化にも反映されているのです。
理解不能な存在とどう付き合うか?
こうした映画が繰り返し描いてきたのは、「人間が全く理解できない存在」と出会ったとき、どんな反応を示すのかという問題です。そして面白いのは、その反応には大きく分けて2つの極端な方向があるということです。
ひとつは、「理解できないから怖い=排除する」という態度。代表的なのが『エイリアン』シリーズです。作中では、異星生物は徹底して「敵」であり、「恐怖の対象」として登場します。異物は排除されるべきもの、というわかりやすい構図です。
もうひとつは逆に、「理解できると思って、相手を自分と同じものとして扱ってしまう」という態度。たとえば『ソラリス』では、亡くなった恋人が記憶から再生され、主人公はその存在に惹かれていきますが、実際にはそれは異星の海によって作られたもの。つまり、理解したつもりで接しても、本質的には理解できていないというギャップが常に存在しているのです。
どちらの態度も、実はとても危ういものです。「理解できないからといって拒絶する」のも、「理解できたと思ってしまう」のも、どちらも他者を真正面から向き合う相手として受け入れていないという意味では同じです。
ここで参考になるのが、哲学者レヴィナスの「他者論」です。彼によれば、他者というのは、完全には理解できない存在として目の前に現れる「顔」を持っています。そして、その「わからなさ」をそのまま引き受けることこそが、倫理の始まりなのだとレヴィナスは分析しました。
ファースト・コンタクト映画も、まさにこの問いを私たちに投げかけています。つまり、「あなたは、わからないものと、どう向き合いますか?」という問いです。
そして、おそらく唯一の正解は、「わからないままでも、共にある」という選択なのかもしれません。これは、人間同士の関係にも通じる、深くて、でもとてもリアルな問いかけです。
ファースト・コンタクトは、単に「宇宙人と出会う物語」ではありません。
それはいつの時代も、「私たちは異質な存在とどう向き合うか?」という、極めて現実的な問いを反映する場なのです。