宇宙小説シリーズ6 最後のフロンティアに挑んだ人類は何を見たのか?宇宙探査が描く希望と不安
人類はどこから来て、どこへ行くのでしょうか? 人類を駆り立ててきた宇宙進出へのロマンは、「地球人」としての目的意識に裏付けられているため、必ずこのような哲学的な問いとセットで語られます。その中でも、人類の希望を託した宇宙探査ミッションを描いた宇宙SF小説は、人類の起源と使命について、様々な思索を展開してきました。
今回は、その中でも人類のあり方をラディカルに問い直す代表的な作品を紹介します。
オラフ・ステープルドン『最後にして最初の人類』(1930):数十億年単位の宇宙進出
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480439543/
1930年代、SF史を揺るがす大作が発表されました。それがオラフ・ステープルドンの『最初にして最後の人類』です。現在から20億年後に至るまでの18種の異なる人類種の興亡を壮大なスケールで描いた本作は、アーサー・C・クラークやH・P・ラヴクラフトといったSF・ファンタジー作家に人生を変えるほどの衝撃を与え、後のSFのあり方を決定づけた作品だといっても過言ではないでしょう。
本作を他のSF作品と分つ特徴は、その圧倒的な時間スケールはもちろん、人類による環境や制度の改変あるいは人類間の争いではなく、「人類そのものが経験する変容」にフォーカスを絞って展開される物語であるという点にあります。本作の語り部は現代を生きる我々と同じ「第一期人類」ですが、はるか20億年後の未来を生きる「第十八期人類」に憑依されることで、人類の歴史を滔々と語り始めます。彼らの語るところによると、この宇宙に一度存在した事物は、感情や記憶を含めて、時空間の存在形式の中に不滅の痕跡を残すがゆえに、進化の過程でその痕跡を感じとる能力を手に入れた人類には、過去の人類の記憶が手に取るように把握できるようです。繁栄を謳歌する時代もあれば、核戦争や地球環境の突然変異によって人類そのものが滅亡の危機に瀕するような自体も繰り返しながら、徐々に精神的な進化を遂げていく人類。やがて太陽の膨張による不可避の絶滅に直面する第十八期人類は、テレパシーによる第一期人類との交信を通じて自分たちの運命を書き換えようとしますが、やがて全てが「人類という音楽」の円環の中に収束していきます。
本作はもちろん架空の人類史ですが、今だに謎に包まれている人類の起源とその未来を考えるにつけても、非常に示唆に富む内容を提供していると言えるでしょう。
ジェイムズ・ブリッシュ「宇宙都市」シリーズ(1950年代):都市丸ごと宇宙移住
www.amazon.co.jp/dp/4150103151
1950年代に入ると宇宙開発競争が激化し、人類による宇宙進出が現実的な議論として行われるようになります。そうした時代背景の中で、本格的な宇宙移住構想をいち早く提示したのが、ジェームズ・ブリッシュの「宇宙都市」シリーズです。21世紀初頭に人類が星間飛行を実現するまでの経緯を描いた『宇宙零年』、32世紀を舞台に少年が宇宙を股にかけて冒険する『星屑のかなたへ』、38世紀を舞台にニューヨーク市による地球への進軍が描かれる『地球人よ、故郷に還れ』、宇宙の終末と再生まで残すところあと三年となった40世紀を舞台に地球人の決断が描かれる『時の凱歌』の計4冊からなる長大な作品群となっています。
中でもスケールにおいて際立っているのは、第三作目の『地球人よ、故郷に還れ』です。「空間歪曲技術」(スピンドィジー)によってニューヨーク市を丸ごと重力バリアで包み込んで宇宙に飛び立たせ、ヒー星という惑星に着陸した後、現地のジャングルを一掃したり地軸を入れ替えるなど、自分都合の身勝手な植民を行います。やがてはニューヨーク市は地球政府との政治的対立から、地球に進軍することになり、「ニューヨーク市vs地球」の最終戦争に発展。人類の未来を体現するアメリカの特権エリート層と、それに対抗するその他の地球人という構図は、現代でも生々しいほどにリアルに感じられますね。
ラストシーンでニューヨーク市長のアマルフィ氏が呟く「地球は場所を指す名ではない。ひとつの思想なのだ」という名言は、映画『マイティ・ソー/バトルロイヤル(2017)』におけるオーディンの「アスガルドは場所ではない。人々なのだ。」というセリフとして現代にも受け継がれています。
ポール・アンダースン『タウ・ゼロ』(1970):ビッグ・クランチまで加速し続ける宇宙船
https://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488638054
1960年代のビッグバン宇宙論の確立を経て、ハードSFの世界では宇宙の起源や終焉を理論物理学的知見に基づいて描く試みがなされるようになりました。中でも1970年に発表されたポール・アンダースンによる『タウ・ゼロ』は、相対性理論を正面から扱った宇宙冒険作品として注目を集めました。日本での知名度は低いですが、本作の著者ポール・アンダースンはクラーク、アシモフ、ブラッドベリ、ハインラインとともに「ビッグ5」として知られる実力派作家です。
『タウ・ゼロ』の「タウ」とは、宇宙船内の人間が経験する時間と、その外側の人間が経験する時間の比率を表した定数のことを指します。タウが1より小さければ、前者が後者に比べて相対的に短く感じられるということを意味します。宇宙飛行士が数十年の宇宙旅行に出かけて地球に帰ってきたら、地球の友人たちが皆自分より年寄りになっていて驚いた…といった「浦島効果」は、まさにこの「タウ」が1より小さいことによって起こります。本作においては、50人の男女を乗せた宇宙船〈レオノーラ・クリスティーネ号〉を襲う予想外の事故によって、その「タウ」が限りなくゼロに近づいていってしまう、つまり宇宙船外で展開する時間が制御不能な割合で加速していってしまうという極限状況における人間ドラマが描かれます。最終的に数億年単位の時間を駆け抜けた結果、〈レオノーラ・クリスティーネ号〉は宇宙の終焉であるビッグ・クランチをも通り越し、新たに生まれた宇宙で地球に似た惑星に到着することになるのですが、桁外れのスケールで展開される意外なハッピーエンドに度肝を抜かれます。
『タウ・ゼロ』の止まらない宇宙船は、人類のテクノロジーの進歩がもはや人類自身の手によっては制御不能な速度で発展していく様子を巧みに描いたメタファーだと言えるでしょう。アンダースンはビッグ・クランチという終末論的なビジョンの先に広がる人類の希望を楽観的に描きましたが、現代を生きる我々は果たして「シンギュラリティ」の先を生き延びることができるのでしょうか。
なお、本作はハードSFとしての設定の緻密さはもちろん、中で描かれる人間のキャラクター描写も大きな魅力となっています。作中の設定では、核戦争後の地球でスウェーデンが最大の富裕国として世界をリードしていることになっていますが、端々に作家アンダースン自身の北欧系のルーツに基づくスウェーデンびいきが見られるところも楽しさの一つです。
スティーヴン・バクスターのジーリー・シリーズ:数百億年スパンで展開される超種族同士の戦い
https://www.orionbooks.co.uk/titles/stephen-baxter/xeelee-sequence/9781473217126/
90年代に入ると、超弦理論の発展を受けて、超対称性粒子や裸の特異点といった新たな理論物理学の発見に基づく破格のスケールの作品が生み出されるようになります。その代表格が、ステーヴン・バクスターの「ジーリー・シリーズ」です。最初にご紹介したステープルドンの『最後にして最初の人類』のスケールすらも超えて数百億年スパンの物語を描く本シリーズは、『プランク・ゼロ』『真空ダイヤグラム』などのシリーズ最初期の数作品を除いて邦訳を待っている状態ですが、本国イギリスでは現役作家のバクスターによって現在も続編が編まれ続けています。
本作のテーマとなるのは、ジーリー(Xeelee)と呼ばれるバリオン物質(陽子と中性子からなる通常物質の全体をさす言葉)に君臨する超種族と、ダーク・マターで構成されるフォティーノ・バードという超種族同士の闘争です。人類はバリオン物質界の底辺の一部族として時折ジーリーにちょっかいを出しますが、実際には圧倒的な科学技術と精神的進化の上に立つジーリーにとって人類との抗争など眼中にありません。ジーリーたちはバリオン物質世界の代表として、神のような知性を駆使しながら、バリオン物質世界全体の崩壊を狙うフォティーノ・バードの策略を打ち砕こうと奔走します。
一段落で数千年が経過するようなスケールに慣れるまではとっつきづらさもありますが、ぶっ飛んだ物理学的発想の上にバクスターの奔放な想像力が炸裂する本作は、21世紀のハードSFのリード役として燦然と輝き続けるでしょう。
いかがでしたでしょうか。今回は、壮大なスケールで人類の起源と未来を描いた作品をご紹介してきましたが、最先端の物理理論を使って人類の未来を予言しようとする野心的な試みこそ、SFの真髄であるとも言えるかもしれません。
次回の連載では、「未来の宇宙に潜む闇とは?サイバーパンクが映す銀河の冷酷な現実」と題して、コンピュータが開いた新たな宇宙開拓の境地を描いたSF作品をご紹介します。お楽しみに!