宇宙小説シリーズ4 宇宙の彼方に地球の未来は見えるのか?ディストピア宇宙SFが映し出す恐怖の予兆
人はなぜ宇宙を目指すのでしょうか。未知なるロマンを求めて、あるいは、単に地球から逃げ出したいから? 政治哲学者のハンナ・アレントは著書『人間の条件』の冒頭で、1957年のソ連による世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げ成功について論じる中で、「人間は地球に留まりたくないという消極的な動機によって宇宙開発を推し進めている」と主張しました。急速に発展するテクノロジーと増大する人口、拡大する資本主義的価値観の中で、理想社会の実現が近づいているように見える反面、地球が住みづらい場所になっていっているとしたら、この先私たちを待ち受ける未来は一体どのようなものになるのでしょうか。
今回は、宇宙SFに描かれるディストピアというテーマにフォーカスして、代表的なSF作品をご紹介します。
「ディストピア」と「ユートピア」はコインの裏表
「ディストピア」という言葉は現在様々な場面で使われていますが、最初に使われたのは19世紀中葉にイギリスの政治哲学者であるジョン・スチュアート・ミルの演説の中だったと言われています。ミルは15世紀の思想家トマス・モアが提唱した「ユートピア」(どこにもない理想郷)の対義語として、中央集権的な管理が行きすぎた結果人間性を殺してしまうような政治体制を「ディストピア」(どこにもない暗黒郷)という言葉で批判しました。この意味で、「ディストピア」という言葉は「ユートピア」の兄弟のような言葉であり、一見管理が行き届いていて幸せそうに見えるけれど、内実は自由が失われていて幸福感が奪われてしまったような状態を指す言葉だと言えるでしょう。つまり、ディストピアを考えることで、その裏面である「理想社会」=ユートピアについてより深く考えるための視点を獲得できるかもしれません。
ザミャーチン『われら』(1920):完全全体主義ディストピア
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ディストピアSFの先駆けと言われる小説が、ロシアの小説家エフゲーニイ・ザミャーチンによる『われら』(1920)です。この作品は1917年から始まったロシア革命を間近で目撃した著者が政治風刺的に執筆したものとして知られていますが、後のジョージ・オーウェルの『1984』にも巨大な影響を与えたと言われています。本作では「全体主義的な地球政府が誕生した結果、いかに人々の自由が抑圧されるか」が詩的な表現で描かれていますが、実は物語全体を貫くテーマは「宇宙船の建造」です。主人公のД-503(人々に名前はなく、代わりにマイナンバーのような番号が割り振られています)は「インテグラル号」と呼ばれる巨大な宇宙船を建造する技師として政府のために働いているのです。本作が執筆されてから約30年後に冷戦下のソ連がアメリカとの宇宙開発競争に勝つために人工衛星やロケットの建造に勤しむことになる、その展開を先取りしたような内容に驚かされますね。実は宇宙開発の中心となるロケット工学と、現代の人口管理技術や金融システムはそのルーツにおいて密接に関係しており、その意味で現代を生きる私たちもまだその世界の延長上にいるのかもしれません。
アーシュラ・K・ル=グウィン『所有せざる人々』(1974):無政府主義的ディストピア
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ザミャーチンの『われら』が管理社会の不自由を描いたとすれば、ル=グウィンの『所有せざる人々』(1974)は無政府社会において現れる不自由を描きました。舞台となるのはアナレスとウラスと呼ばれる二重惑星で、前者が無政府主義的な共同社会を体現する一方で、後者は貧富の差が著しい資本主義的社会を体現しています。主人公である物理学者シェヴェックは、「自由の国」のはずのアナレスで独創的な研究を行おうとしたところ、集団の同調圧力によって研究が邪魔されてしまいます。シェヴェックは自身の研究を継続するために資本主義的な惑星ウラスへ移住しますが、ウラスでは一部の特権階級のために研究成果が利用されてしまうことに気づき、結局ウラスに存在する異星(地球)の大使館に逃げ込み、研究結果を全人類に公開することに成功します。二つの対極的な政治体制を比較して描きながら、結局どちらも完璧ではないという事実を見事に描くプロットになっています。
ル=グウィンは19世紀後半のロシアの革命家の思想を学ぶ中で、本作の着想を得たと言います。当時のロシアには共産主義革命を唱えた人々の他にも、クロポトキンやバクーニンをはじめとした無政府主義(アナーキズム)を唱えた一群の人々が存在しました。結果的に政府による一元管理体制を採用した共産主義と、政府そのものの存在を否定する無政府主義とは対極の関係にありますが、一見自由の理想を体現しているかに見える無政府主義の中にも、実は「同調圧力」という不自由の芽が潜んでいるということをル=グウィンは仄めかしています。本当の自由を守るのはシステムそれ自体ではなく、そのシステム内部に生きる人々によるたゆまぬ思想的な努力なのだと痛感させられます。
リチャード・モーガンによる『オルタード・カーボン』(2002):不死の階級社会ディストピア
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ここまでに全体主義的ディストピアや無政府主義的なディストピアを見てきましたが、リチャード・モーガンが『オルタード・カーボン』(2002)に始まる「タケシ・コヴァッチ・シリーズ」の中で描いたのは、資本主義的な搾取構造が、バイオテクノロジーの進歩によって死をも乗り越えた後に広がる究極の階級社会のディストピアでした。舞台となる360年後の未来では、人類は7つの植民星に居住し、「保護国」と呼ばれる中央政府が星間警察であるCTACを通して統治を行っています。裕福な人々は「スリーヴ」と呼ばれる肉体を購入することで何千年も生きながらえる一方で、貧しい人々は使い捨てのように扱われています。主人公のタケシ・コヴァッチは傭兵として反体制的な活動を展開しますが、圧倒的な社会の分断と権力格差の前には無力です。
本作はNetflixで2018年から2020年にかけてドラマ化され、世界中に大きな反響を巻き起こしました。ドラマでは「精神がデジタル化された人々はスリーヴと呼ばれる肉体を自在に乗り換えることができる」という設定を忠実に反映し、主人公の見た目がコロコロ変わる点が特徴です。そのせいで感情移入がしづらい面もありますが、見た目に惑わされずにその人の魂ともいうべき本質に目を向ける大切さを教えてくれているのかもしれません。なお、主人公の名前の「タケシ」からわかる通り作者は日本文化に深い造形を持っており、時折登場する日本的な固有名詞にもグッとくること間違いなしでしょう。
『オルタード・カーボン』は人間自身が「生命」及び「アイデンティティ」の定義を書き換えることによって生じるディストピアを提示しています。バイオテクノロジーの進化はいまだに人間を不死にするところまでは行っていませんが、高度に発達した情報社会に住む我々は、すでにプラットフォームに応じて自分自身のアイデンティティを細かく使い分けることに慣れてきています。生命の限界を克服して究極の自由を獲得した時、「死すべきもの」として自らを定義づけていた人間たちは自らのアイデンティティを根本的に喪失してしまうのかもしれません。
イアン・M・バンクス『カルチャー』シリーズ:欠乏なきディストピアとその外部
https://www.kadokawa.co.jp/product/200000000506/
ここまで扱ったディストピア作品は、いずれも何らかの「抑圧」や「搾取」の上に成り立つ社会を描いてきましたが、イアン・M・バンクスの『ゲーム・プレーヤー』(1988)をはじめとする「カルチャー」シリーズは、一切の窮乏を克服したユートピア社会とその外部をテーマにしています。「科学技術が進歩しても人間の社会構造は本質的に変わらない」と仮定する他のSF作品と違い、バンクスは「技術の進歩によって社会構造も進歩する」と考えます。本作の舞台となる「カルチャー」と呼ばれる惑星では、高度に科学技術が発達した結果、犯罪も貧困も消え去り、法律もやがて不要になりました。全ての重要な決定がAIによって行われるようになった結果、人々は「ミーム」と呼ぶべき文化の生産のみに集中するようになります。しかし、「カルチャー」の文化様式を受け入れようとしないイディラン帝国との間で摩擦が生じ、両者の間で戦争が勃発する、というのが本作のメインプロットです。
プロットを見れば気づく方もいるかもしれませんが、バンクスはアメリカによる対中東政策をモデルにして本シリーズを執筆しています。著者であるバンクス自身はイラク戦争に際してアメリカに追従する姿勢を見せたイギリス政府に対し、パスポートを破り捨てるパフォーマンスで抗議の意を示したことでも有名になりました。アメリカは自由と民主主義を世界に輸出することで全世界に平和が訪れるという信念に基づいて行動していますが、イスラム教に基づく中東世界はそのような信念に対して極めて懐疑的であり、西洋における技術的進歩すらも安易には受け入れない慎重な姿勢を示します。イスラム教圏の人々がアメリカ的な文化を拒絶する理由の多くは、その消費主義的な文化が生きる意味を喪失させ、退廃的態度を生み出すという点にあります。本作を読み進むにつれて、主人公が本当に求めているものは「人生に根源的に深い意義を提供してくれる文化」だと明らかにされます。物質的・社会的欠乏が一切消え去った社会において「生きる意味」が喪失してしまうならば、それは決してユートピアではない、というメッセージが読み取れます。
ディストピア宇宙小説は、社会の深層底流を映し出す「鏡」だと言えます。それぞれのディストピアSF作品は、作品が執筆された当時の社会状況のあり方に対して深いレベルでの批判を試みた作品でした。我々人類が歩んできた歴史のあゆみと並行して編まれてきたディストピアSFの問題提起を通じて、「本当の理想社会とは何か」について改めて考えさせられます。
次回の連載では、「異星の文明と私たちはどのように出会うのか?ファーストコンタクトの歴史を紡ぐ物語」と題して、異質な知性との出会いを描くSF作品を紹介していきます。お楽しみに!